祖母が亡くなり遺品のリトルカブを引き継いだ。

車よりもガソリン代が安く済むのでもっぱら通勤に使っている。

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このバイクは自動クラッチ式で、速度に応じて自らギアチェンジをしなければならない。

初めは要領がわからなくて坂道を登りきれずに停止したこともあったが、次第に慣れてきた。

京都にいた頃は二段階右折を為し遂げる自信がなく免許取得を諦めたものだが、こちら高千穂にそんな広い交差点があるはずもない。快適だ。

「なんでおばあちゃんはカブばっか乗ってたんですかねー」

祖父に訊ねると、スクーターで転けたことがある云々、タイヤのインチ数が云々。ふーん、そんなに変わるもんかね。

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老病死は必定のことなので、祖母のことでさんざん泣いたが悲しい気持ちにならないように努めた。

思い通りにならない苦を超越することこそが人生の目的であるなどとシラフで語り、酔っても説法をかまして店のお姉さんから寂聴と呼ばれたことのあるこの私が、死に対する態度だけは歪めてはならないのだ。

死生観についてハッキリさせておくと、苦からの解放を出発にすることは釈尊に同調しつつも、輪廻の主体としての真我アートマンは存在すると考えるのが好きで、解脱への道筋は『バガヴァッド・ギーター』で説かれるカルマヨーガ・バクティヨーガを土台とした方法を採用し、ひとまずはラーマクリシュナのような見神体験を目指している。こんなところだろうか。

私の神的な出生と行為とを、このように如実に知る者は、身体を捨てた後、再生することなく、私のもとに来る。『バガヴァッド・ギーター』4章9節

そういえば先日、神社で尼僧の方の祈願を受付しているとき、私の要らぬ口がきっかけでちょっとした諍いになってしまった。

「住所の振り仮名は〇〇市のところも書いた方がいいの?」
「はい、すみません、わたくし学がないものですから、書いていただけるとありがたいです」
「(ギョッとして)…あなた嫌味なこと言うわねえ!学がありそうな顔してねえ!」

その実、ただ滑ったのだ。神職が軽口で僧侶のウケを狙って滑った。悪意よりタチが悪い。歳の差ざっと見積もって40以上。

その後きっちり神前奉仕させていただいたあと、尼僧に質問をした。ちょうどその頃、 真我の否定と輪廻の両立についてどういう論を立てるのか興味があったのだ。

「インド思想では真我なるものが輪廻の主体として存在すると考えることがあります。仏教は無我や非我なんて言いますが、輪廻についてどう思いますか?」

「(金剛界胎蔵界が云々という前置きがあったあと)……人生が一度っきりなら好き放題しちゃえってなるじゃないの!」

私もその考えかたが好きだ。

「私もそう思います!その考え方が好きです!ありがとうございます!握手をしましょう!」

そうして握手をした。死後の世界は今を生きる人間の毎日のためにある。

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祖母の五十日祭では私が祭主を務めた。

神道では五十日祭を経て故人の御霊が祖霊神の一柱になるとされる。なんと愛すべき思想なのだろう。