「お賽銭はいくらがいいですか」とよく聞かれる。

個人的には「何円でも。ひとつ付け加えるとすれば、多ければ多いほど!」と考えている。崇敬の対象への供物とすれば、できる限りをもって尽くすというのは自然な考えなのだ。立場上言いづらいのだが。

例えばあなたの友人なり、親類なり、パートナーなり、大切な誰かを心からもてなすとき、時間とお金を使って最大限のことをするだろう。その感覚でいるといいのではないか。

神職らしく嫌味ったらしい言葉を付け加えるならば、あなた様と神様のことですから、私などは預かり知りませんよ、とも言える。

なんにしたって内なる信仰の問題なので個々人が主体性を持って考えたほうがいいのだ。

なにも金銭じゃなくたって、それぞれのやり方で神に報いるならばそれでいい。こしらえた農作物、得意な歌舞や音曲、称名、日々与えられた義務の遂行……。

「願いを叶えてもらうためにはいくら?」というのが質問の意図の場合、正直に答えますれば、すみません、私は現世利益のための参拝ってのがあんまよくわかんなくて、言えることがありません。力及ばずすみません。

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二重にご縁がありますようにの語呂合わせで「25円」がいいという考え方もある。

これに異を唱える神職さんがテレビで言うことには「『円(えん)』という通貨(単位)が流通する前から神様はいらっしゃるし、5円でご縁というのは後付けにすぎませんよ」とのことだ。いかにもな意見で感服した。

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千円札を入れるといいという意見も耳にしたことがある。神様に報いるということはもちろん、精神的な健康を手に入れるのにも役立つとのことだ。

曰く、物質的な見返りがあるものではなく、精神的な悦びのためにお金を使えるというのはあらゆる面で余裕があるからに違いないという。それを実感できるのが千円をお賽銭箱に入れる行為、というわけである。

実際というかなんというか、成功者と言えるような人たちは10万円なり100万円なりをスッと納められる。本当にスッとやる。物質的に満たされたあとは精神的な方面に興味が傾くのだろう。

変な話、そういう豊かな人たちを見ていると、純な信仰を持とうと思ったとき、いったん金銭・社会的に成功をおさめてしまうというのは合理的な道のように思える。

いやはや、お金稼ぎは大切なことだ。

ギーターが説くように日々の義務を果たすことが修行そのものであるという考え方が好きなのもあるが、金は何にも縛られない生活を保証し、供養に使うこともできる。時間も買える。人生も買える。どこに悪い要素があろうか。

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さて、それでお前はいくら納めるんだというこということでございますが、賽銭に関しては財布の小銭ぜんぶとかをどさっと入れがちです。

ただ、同期なり縁のある人のお宮の場合は初穂料としてまとまった金額、具体的には1万円を包むことがほとんどです。

なので、件の質問に対しては1万円納めますと答えられるかもしれません。どうです、参考にならなかったでしょう。

自由にするとよいですよ。