何にも考えずに文章を書くことがなにより楽しいと思っていて、資格取得のために大学に通い直しているときは90分の講義中に話もなんも聞かず、ただ思うがままルーズリーフに裏表2枚くらい意味のない文章を書き綴ったりした。
「書き綴る」だってさ。
そのときは本当に意味のないことばかり書いていて、例示ができないほど意味がない文章なのだけど、
「あー眠たい講義はやく終わってくれだるいな。夜何食べようか。食べるっていいことですよね。たべないよりはさ。今晩はぎゅーとらで弁当でも買うか。いや、それは高くつくから卵とキャベツを焼いてお好みソースかなにかで食べるぞ!食べる!食べる!食べる!」
…という感じ。これを90分ぶっ続けでやる。
とにかく手を動かし続けるのが楽しかった。これで小説とか書けるといいんだろうけど、僕には無理だね、一人称、おれの目、おれの脳でしか物事を捉えられないから。
土台からして自分の外側の描写や説明が下手くそだし、写真一枚で説明がつくことをわざわざ文字で描写することがストレスだ。「描写」は鼻についてきらいだ。事実の切り取りでセンス見せつけてくな。枯山水ありがたがるような嘘くささがある。
…あースッキリした。
はい。話を書くことに戻すと、100万近い学費を捻出して25歳で大学通い直してやることがそれか!みたいなところがあるが、半年くらい続けるとかなり精神的な安定感が高まったのでそれはよかった。
とは言いつつも就職をしてからも激しい波みたいなものはあって、今ではもうそういうのからは卒業しつつあるのだけど、これはデイリーで書き始めたことが功を奏しているのかもしれない。
どうも書くということが僕には必要らしく、必要に応じてそれをしているだけなので、頭を使って文章を書いてる人、共感取りが上手い人、トレンドが掴める人、それは世の中の大多数の表現者たちのことだけど、もうわたしなんかはまったく敵いませんよ。そして敵わなくていい。
もはや精神的に安定して自己正当化のための論理を弄ぶ必要もなくなった。白旗。よろこんで白旗を振りましょう。その白旗がお金になるなら、なおのこと全力でやりますよ。万歳!
本当はウケてる人はいいな、と思うけれど。ウケるに越したことはないし。でも、ウケてていいな、ウケなくていやだな、と思う気持ちさえ廃せれば、俺は無限に書けるし書きたい。それをすべきだと思う。
井の中の蛙、いや、井でも広すぎるな。僕はたまごの中のおたまじゃくしでいいです。
書く書く書く。
コメント
コメント一覧 (2)
苦手な人はとことん苦手だけど、好きな人は本当に好きですよね。わたしもそのひとりです。
子供の頃のチラシの裏の落書きに始まり、思春期(まだ携帯がない時代)は家の電話で話しながら意味のない文字や絵を書いてました。
同じ頃、音楽が好きだったので誰に読ませるアテもなくCDやライブのレビューを書いたペーパーなども書いてました。
原案、制作、読者、全部自分ひとり!自分で設定した締切に追われる日々でした笑
今でも無意味に自分の名前や住所、愛猫のプロフィールなどチラシの裏に書いてます。めちゃくちゃ楽しい!
くっちゃん
がしました
チラシの裏にいろいろ書いて楽しむ文化ありますね。
それと、チラシの裏ってのはそのー、実際にそうだとしても、精神的な意味もあるというか、誰にも見せないけど自分の楽しみとして書くみたいな慣用表現でもありますよね。
携帯の話もありましたけども、それでいうと私は2003年の小5のときから家のパソコンで楽天ブログを更新していましたので、書くものはネットに流さなきゃ勿体無い!という貧乏根性がありますね。
そうすると他者の目をどうしても気にしなければならず(頭で考えていることをそのまま書くと思念の口が悪すぎて終わる)、趣味としては不完全になるのかなあと思います。
「チラシの裏的」に自分ひとりの楽しみとして僕が思い浮かべるのは、幼稚園の頃に園内中の毛虫を摘んで集めて水を張ったバケツにぶち込んでいたことです。あれは本当に説明しようもない個人的な愉しみでした。
くっちゃん
がしました