今日二合一勺のそのまた欠配に暴動を起さなかった諸嬢諸氏すべて偉大なる殉国者であり、その愛国の情熱はカイビャク以来のものであることを確信し、今日諸嬢諸氏の現身がいかほどぐうたらでだらしなくとも、断々乎として、自信、自愛せられんことを。
坂口安吾「二合五勺に関する愛国的考察

『堕落論』や『白痴』などで知られる小説家、坂口安吾の書いたものが好きでよく読む。といってもほぼエッセイしか読まないのだけど。

安吾のエッセイの良さは「俺がこう思うんだからこうなんだよ」という圧倒的な我の強さと独特な理論の構築にあると思う。

些細な一文にまで客観的なソースを求めるノイローゼ感覚に冒されている現代人の私からすると、安吾のパッションあふれる独特な文章は鮮烈なものとして目に映るのだ。今こんな人いないもんな。

好きな彼のエッセイは数多くあるが、最初に引用した「二合五勺に関する愛国的考察」​が安吾らしさ全開で特に気に入っている。

内容をざっくり紹介しよう。(ざっくりと言いつつ長くなったけど)

——

王政復古が叫ばれた明治の時代、すなわち神道の国教化が強く推し進められていた頃、キリスト教を密かに信仰していた集団が捕縛された

いわゆる隠れキリシタンである彼らは藩の役人によって棄教改宗が迫られ、従わない者は拷問を受けた。服を脱がされ雪のつもる庭に座らされるなどして、心身ともに苦痛が与えられる日々が続く。

しかし彼らの信心は並大抵のものではない。拷問によって棄教するどころか、責苦を受ける己の姿を磔刑されたイエスに重ねてますます信仰を深める者すらいたそうだ。

あらゆることに耐え忍んだ彼らだったが、あるとき意外なことが理由で数百人もの信徒たちが棄教を申し出たのである。

理由は空腹だった。与えられる食糧が足りないと音をあげたのだ。

それは役人たちがまったく意図せざることだった。
配給として一人一日三合の米を毎日しっかり与えていたのだから。

当時の農家は1日に一升の米を食べることが普通とされていたので、キリシタンの農民たちも同様だったのだろう。3合あっても相対的にはすくないのだ。

どんなに辛い拷問にも耐えてきた彼らが三合の配給に神を裏切ったとは夢のようだ
と安吾は言う。

なぜなら、安吾の生きた戦時下には1日あたり「二合五勺」の米の配給が普通で、それも欠配が二十日続くことすらあったのだ。

にもかかわらず、この不幸な国民たちは大規模な暴動を起こすこともしないのである。


先の大戦では軍部が勝手に戦争を起こし、勝手に降参した。万事につけて寝耳に水な国民は祖国の宿命を静かに受け入れた。

残虐な拷問に耐えたキリシタンのことを想像するとき、その殉教の覚悟や激しさにはまったく手が届かないように思えるが、ふと顧みると戦争を日常のものとして乗り越えた我々はキリシタンを遥かに凌ぐ「異常児」なのだと安吾は悟る

すなわち、あの熱狂的なキリシタンたちですら三合で神を売ったが、我々は二合五芍の配給、それがさらに欠配しようとも祖国を売らなかったのだから、と。

しかも殉国・愛国の志を持つ自覚を伴わずして、ほぼ無意識に。それは天地開闢以来まれな愛国的態度といえるものだ。

(え?安吾の時代のニ合五勺とキリシタン農民の三合の価値は違うだろって?…当の安吾はこんな言ってますよ!

>算術の達人があらわれて、浦上切支丹の三合と、私の二合一勺との歴史的価値の差異軽重について意外な算式と答を見つけだしても、私はいっこうに悪びれないのは、私は算術の公式にない詭弁の心得があるからで、曰く、私は私だ、ということ、つぎに、すべては、たゞ人間だ、ということ、これである。


……さて、大体はこのような話で、エッセイは次の文で締めくくられる。

>されば今日二合一勺のそのまた欠配に暴動を起さなかった諸嬢諸氏すべて偉大なる殉国者であり、その愛国の情熱はカイビャク以来のものであることを確信し、今日諸嬢諸氏の現身がいかほどぐうたらでだらしなくとも、断々乎として、自信、自愛せられんことを。げに人間はぐうたらであり、偉大であります。

——

ねえ。いいでしょう。

こんなに勇気を与えてくれる文章ってそうそうないと思いますよ僕は。ほんまに泣きそうになります。

価値観の変化めまぐるいあの動乱の時代にあって、ちゃんと人間を捉えてたんですねえ安吾は。そこがいい。堕落論もそういう話ですよ。ざっくり言えば。

(ほんまはもっと書くつもりやったんですけど飽きましたすんません。消すの勿体無いんでこのまま投稿させてもらいます。)

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