「白米が食えるのは正月だけじゃった」
今年で80歳を迎えた農家のお祖父ちゃんがよく言うセリフだ。米が貴重品だったというのはよく聞く話だが、よく考えてみると1942年生まれの祖父が米を食える年齢になった頃には戦争も終わっており、食料難が続き供出制度があったといえども農家が米を自由に食べられなかったというのは想像が難しい。
なぜ農地を持つ家の子どもが白いご飯を食べられなかったのだろう。
(田んぼはイメージです)
お祖父ちゃんが住むのは宮崎県の山間の古い家。代々受け継いできた家の裏山には小さな田んぼがあり、今でも米を作っている。もっぱら自家消費のための稲作であるが、小さな田んぼとはいえ親族数世帯が食うに困らないの収量はあるようだ。
田畑を持たない人間が米を食えないというのは理解できる。凶作で市場に出回る数が少なければ手に入らないことだってあるだろう。単純に米を買うお金がないということもあるかもしれない。
ぼくが問題にしたいのは、いま現在余るくらいの米が穫れる田んぼがあり昔からその土地はあったはずなのに、じいちゃんが一時代とはいえ米を自由に食べられなかったのは何故か、ということだ。社会全体のことはさておき、うちの一族、いち家族、いち個人に限った小さな事情がとても気になる。当時の話を聞いてみた。
祖父。
――昔は白いご飯が食べられなかったという話がありますね
祖父:そうじゃん。正月、年の晩だけ白い米の飯。この辺は大正年間に用水路が通ったったい。それが通るまでは山から出る水くらいしかなかったき、川の近くに田が少しあるだけで他んとこは無いったい。昔はほとんど畑じゃったの。
――なるほど、うちの裏山も大昔は田んぼじゃなかったんですね
祖父:そうそうそう。あれは大正時代に水が来てから。昔は米が取れんもんじゃき、冠婚葬祭のときには天秤棒担いだり牛を引いたりして肥後(熊本)とか竹田(大分)に米を買いに行きよったっちゅう話があるったいの。
――用水路の整備が大正時代なら、お祖父ちゃんが子供の頃には田んぼがあったはずですが
祖父:少しは田があったっちゃけんどん、狭いったい。それにうちの土地は酒屋に酒代のカタで取られちょってよ。酒屋におさえられている田んぼは小作じゃき穫れる米は6割持っていかれたたい。4割はうちのじゃけんどん。
昔は酒屋が家にやってきて一斗瓶を据えて焼酎入れていくとたい。要らんちゅうても『いいっちゃが、飲まんでいいき置いちょくわ』って。家にあったら好きじゃき飲むわの!それで師走になったら『金くんない』って酒屋が集金に来て。支払う金がねえき『そしたら代わりに田んぼくんない』って土地を持っていく。
これが一斗瓶。僕は遺恨がないのでニッコリ。
酒屋が押し売りのように焼酎を置いていき、ついつい手を出したばかりに代金が支払えず土地や田がカタとして持っていかれ、その田で穫れる米の半分以上は酒屋のものになる。なんと容赦のない時代だろうか。現代のリボ地獄どころの話じゃなくてゾクゾクする。小作人として働いたご先祖様の苦労を思うとなんとも言えない気持ちになるが、今の僕の幸福はその上に成り立っていると考えればぬかずく他ない。なむ。
じいちゃんが米を食べられなかったのは「ただでさえ田んぼが狭いうえに酒屋に米を持っていかれてたから」ということで納得できた。当時子どもだったじいちゃんが捉えたことで実際の様相とは異なるかもしれないが。こんなことは教科書にも乗らないだろうな。
――お正月にお米を食べるときはどんな感じだったんですか
祖父:おいが小学6年くらいまでは年の晩しか米が食えんかったたい。いつもは茶の間で飯を食いよったけど大晦日だけはご先祖さんの前に高膳組んでよ。おかずは生魚がねえき小さなとうじんぼし(イワシの丸干し)たい。そして膳の前に座ったらどんなに小さい子どもでも盃で酒飲むこったい。
今度は親父どんが『牛と鶏にゃ年とらせたかい(注:年=稲)』っちゅうき、家で飼っちょる牛と鶏に米持っていって食べさせて。その後じゃないと人間が米を食われんとたい。昔は牛が農機具の代わりじゃき大切にしとったっちゃの。
――白米を食べるということが一大イベントだったんですね。お正月以外のときは白米のかわりに何を食べていたんですか
祖父:アワめし、とうきびめし。アワは何年置いとったっちゃ傷まんき。アワだけはどの家でも非常食として2俵ずつくらい置いてあるとよ。アワは自分とこの畑でつくっとった。
――アワなんて教科書でしか見たことないです。他になにかお米に関することでお話はありますか
祖父:修学旅行に行くときは米を布袋に入れて持っていっちょった。
――ん?修学旅行に米?なんですか?
祖父:米を1合ずつ泊まる旅館にもっていかなあかんと。自分たちが食べるぶん。2泊じゃき初めの宿に一つ渡して、次の宿にもひとつ出して…えらいなもんじゃ。
――今では考えられない話ですね。ありがとうございました。
職場で聞いたところによると修学旅行に米を持っていくというのは70歳以上の人にはあるあるらしかった。正月の話といいハレの舞台に米がいちいち登場するのは面白い。昔は米が貴重で神聖なものとされていたというのは本当のことだったのだ。その考え方は現在も息づいており、今でも神社のお供物は鯛や鶏肉を差し置いて米が最上位のものとされている。
それにしても歴史の授業でしか聞かないアワなんてものを主食としていた人間が今の世で生活しているというのは感慨深い。アワを食べていた人でもYouTuberになれるし宇宙にだって行けるのだ。理論上おかしいことは一つもないのだが、なんとなくパラレルワールド感がある。
これを機にじいちゃんからいろんな話を聞いておきたいと思った。
【関連記事】
今年で80歳を迎えた農家のお祖父ちゃんがよく言うセリフだ。米が貴重品だったというのはよく聞く話だが、よく考えてみると1942年生まれの祖父が米を食える年齢になった頃には戦争も終わっており、食料難が続き供出制度があったといえども農家が米を自由に食べられなかったというのは想像が難しい。
なぜ農地を持つ家の子どもが白いご飯を食べられなかったのだろう。
(田んぼはイメージです)
お祖父ちゃんが住むのは宮崎県の山間の古い家。代々受け継いできた家の裏山には小さな田んぼがあり、今でも米を作っている。もっぱら自家消費のための稲作であるが、小さな田んぼとはいえ親族数世帯が食うに困らないの収量はあるようだ。
田畑を持たない人間が米を食えないというのは理解できる。凶作で市場に出回る数が少なければ手に入らないことだってあるだろう。単純に米を買うお金がないということもあるかもしれない。
ぼくが問題にしたいのは、いま現在余るくらいの米が穫れる田んぼがあり昔からその土地はあったはずなのに、じいちゃんが一時代とはいえ米を自由に食べられなかったのは何故か、ということだ。社会全体のことはさておき、うちの一族、いち家族、いち個人に限った小さな事情がとても気になる。当時の話を聞いてみた。
祖父。
――昔は白いご飯が食べられなかったという話がありますね
祖父:そうじゃん。正月、年の晩だけ白い米の飯。この辺は大正年間に用水路が通ったったい。それが通るまでは山から出る水くらいしかなかったき、川の近くに田が少しあるだけで他んとこは無いったい。昔はほとんど畑じゃったの。
――なるほど、うちの裏山も大昔は田んぼじゃなかったんですね
祖父:そうそうそう。あれは大正時代に水が来てから。昔は米が取れんもんじゃき、冠婚葬祭のときには天秤棒担いだり牛を引いたりして肥後(熊本)とか竹田(大分)に米を買いに行きよったっちゅう話があるったいの。
――用水路の整備が大正時代なら、お祖父ちゃんが子供の頃には田んぼがあったはずですが
祖父:少しは田があったっちゃけんどん、狭いったい。それにうちの土地は酒屋に酒代のカタで取られちょってよ。酒屋におさえられている田んぼは小作じゃき穫れる米は6割持っていかれたたい。4割はうちのじゃけんどん。
昔は酒屋が家にやってきて一斗瓶を据えて焼酎入れていくとたい。要らんちゅうても『いいっちゃが、飲まんでいいき置いちょくわ』って。家にあったら好きじゃき飲むわの!それで師走になったら『金くんない』って酒屋が集金に来て。支払う金がねえき『そしたら代わりに田んぼくんない』って土地を持っていく。
これが一斗瓶。僕は遺恨がないのでニッコリ。
酒屋が押し売りのように焼酎を置いていき、ついつい手を出したばかりに代金が支払えず土地や田がカタとして持っていかれ、その田で穫れる米の半分以上は酒屋のものになる。なんと容赦のない時代だろうか。現代のリボ地獄どころの話じゃなくてゾクゾクする。小作人として働いたご先祖様の苦労を思うとなんとも言えない気持ちになるが、今の僕の幸福はその上に成り立っていると考えればぬかずく他ない。なむ。
じいちゃんが米を食べられなかったのは「ただでさえ田んぼが狭いうえに酒屋に米を持っていかれてたから」ということで納得できた。当時子どもだったじいちゃんが捉えたことで実際の様相とは異なるかもしれないが。こんなことは教科書にも乗らないだろうな。
――お正月にお米を食べるときはどんな感じだったんですか
祖父:おいが小学6年くらいまでは年の晩しか米が食えんかったたい。いつもは茶の間で飯を食いよったけど大晦日だけはご先祖さんの前に高膳組んでよ。おかずは生魚がねえき小さなとうじんぼし(イワシの丸干し)たい。そして膳の前に座ったらどんなに小さい子どもでも盃で酒飲むこったい。
今度は親父どんが『牛と鶏にゃ年とらせたかい(注:年=稲)』っちゅうき、家で飼っちょる牛と鶏に米持っていって食べさせて。その後じゃないと人間が米を食われんとたい。昔は牛が農機具の代わりじゃき大切にしとったっちゃの。
――白米を食べるということが一大イベントだったんですね。お正月以外のときは白米のかわりに何を食べていたんですか
祖父:アワめし、とうきびめし。アワは何年置いとったっちゃ傷まんき。アワだけはどの家でも非常食として2俵ずつくらい置いてあるとよ。アワは自分とこの畑でつくっとった。
――アワなんて教科書でしか見たことないです。他になにかお米に関することでお話はありますか
祖父:修学旅行に行くときは米を布袋に入れて持っていっちょった。
――ん?修学旅行に米?なんですか?
祖父:米を1合ずつ泊まる旅館にもっていかなあかんと。自分たちが食べるぶん。2泊じゃき初めの宿に一つ渡して、次の宿にもひとつ出して…えらいなもんじゃ。
――今では考えられない話ですね。ありがとうございました。
職場で聞いたところによると修学旅行に米を持っていくというのは70歳以上の人にはあるあるらしかった。正月の話といいハレの舞台に米がいちいち登場するのは面白い。昔は米が貴重で神聖なものとされていたというのは本当のことだったのだ。その考え方は現在も息づいており、今でも神社のお供物は鯛や鶏肉を差し置いて米が最上位のものとされている。
それにしても歴史の授業でしか聞かないアワなんてものを主食としていた人間が今の世で生活しているというのは感慨深い。アワを食べていた人でもYouTuberになれるし宇宙にだって行けるのだ。理論上おかしいことは一つもないのだが、なんとなくパラレルワールド感がある。
これを機にじいちゃんからいろんな話を聞いておきたいと思った。
【関連記事】
コメント
コメント一覧 (1)
押し売りも追い出せばどうにかなると思ったら、
勝手に酒を置いて行って後から集金ですか。極悪非道ですね(笑)
とても味のある良いおじい様ですね。
あと、モガヒャクさんの顔が心なしかすっきりと爽やかに見えました。
前も言いましたがぜひ宮崎は行ってみたいです。
なんかとても貴重な体験ができそう。お爺さまにも会わせて下さい。笑
くっちゃん
がしました