テキストサイトといふものありけり

その昔、テキストサイトと分類されるウェブサイトがありました。インターネットで文章を披露するとき、今はTwitternoteなろうなど既存のサービスを利用しますが、昔の人はウェブサイトを一から作っていたんですね。そのなかでも面白ネタをコンテンツの中心に据えたサイトをテキストサイトと呼びます。本記事では、そのテキストサイトで使われていた独特な文体について私観を述べていきます。


テキストサイトの文章の特徴

テキストサイトの中でも「フォントいじり系」というジャンルがありまして。

文字を大きくしたり


ぶっちゃけネタに取り消し線






やりすぎなくらいの改行を挟みつつ









動かしてみたり



今ではあまり見られない様式が使われていました。

そのフォーマットで何を書くのかといえば「財布の中の500円が無くなった」だとか「他人にはわからない身内ネタ」だとか「クソゲー紹介」だとか、身の回りのことばかりで。

2004年当時小学6年生だった僕はそれが大好きで、テキストサイトフォロワーの中高生が運営していたウェブサイトをよく覗いていました。昨今で言うヒカキンチルドレンみたいなものですが、もうこれも死語でしょうか。

さて、テキストサイトはmixiやブログサービスの台頭で行き場を失ったというのが定説です。現存しているサイトもありますが、フォーマットが時代に適さないので検索ではまず目に入らなくなっています。

昔の検索結果はもっと面白かったように記憶してますが今は似たり寄ったりのサイトばかり出てきますね。個人ブログなんか出ればまだいい方で、大半は企業HP、ニュースサイト、5ちゃんまとめ、いかがでしたかブログなどなど。ガワなんて大した問題じゃないのかもしれませんが少し寂しい。

世の流れなので仕方ありませんし、そもそも当ブログも画一化の片棒を担いでいます。

過度な改行の効用

テキストサイトが滅んだこととフォントいじりが使われなくなったことは別の問題なはずなのに、フォントいじりを見ることも今では少なくなりました。むしろブログサービス使えば昔より簡単にいじれるというのに。古臭いとみなされているのでしょうか。

さて、ここからはテキストサイトの特徴的な表現「
過度な改行」と「フォントいじり」の2点にフォーカスを当てて私観を述べたいと思います。技術的な話からは目を背けますのでご容赦ください。あいにく門外漢で。

まず、過度な改行はアメブロの
芸能人ブログに引き継がれました。

改行は
を表現するもので、漫画ザ・ファブル』で言う───これ──────だったわけですが──────

例えば「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」と書くよりも


なにごとの


おはしますかは


知らねども


かたじけなさに


涙こぼるる




改行ならぬ西行の有名句ですが、こちらのほうが侘び寂びがあって良いですね。

話を戻しますと、アメブロの改行というものは俗悪極まりないものでして。当たり前の話ですが、改行が多い=1記事あたりの行数が多いということ。当時はガラケーという小さくてヘボい携帯電話でブログを読む人が多かったのですが、ガラケーは行数の多い記事を一度に全部表示しなかったんです。1つの記事を4,5ページに分けて表示してたんですね。途中まで読んだら【続き】ボタンを押して次のページに進まなければなりません。

これで何が起こるかというと、
同じ文章量でも改行が多いほど閲覧数を稼げるんですよ。それで、PV数=収益となる芸能人は改行を多用して小金を稼いだであろうという話です。これにより改行という手法そのものが陳腐化してしまったということが、少なからずあると思います。


現在はスマートフォンが普及しているので、1つの記事を1ページですべて表示するということが当たり前になりました。その後のアメブロがどういう形式を取っているのかは存じ上げませんが、改行についてはもう一度考え直す余地があると思います。

ここでとある記事を引用しましょう。


無限スクロールは、ユーザーがクリックをせずに画面を下へスクロールすると次々と新たなコンテンツが表示される機能。「衝動の早さに脳がついていけないようにすれば、スクロールをずっと続けてしまう」とラスキン氏は語る。
https://www.bbc.com/japanese/44721055

話が少し飛躍するかもしれませんが、
スクロールという行為そのものが脳に快楽をもたらすと仮定したとき、テキストサイト文体の発案者は人間の根源的な欲求を直感的に見抜いていたということにならないでしょうか。そうだとすればこんなに興味深いことはありません。

金儲けのために人間の脳や生活を破壊することはもちろん許されません。ですけれども、西行の句で例示した通り
侘び寂びの表現をしつつ人間の本能を刺激することができるとすれば、改行はもう少し見直されてもいいはずです。

フォントいじりとテロップ不要論

現在ではとんと見なくなったフォントいじり、それはなぜなのか。本当に時代遅れのものなのか。お笑い番組におけるテロップ不要論と比較して考えます。

「字幕(番組内のネタに入るテロップ)は要らんような気がするけどね。だって、(視聴者に)伝わるか、伝わらへんかは、ガチの話で言ったら、芸人が(腕を)磨いていかなあかんだけのことやから」
https://smart-flash.jp/entame/35367/1
エンタの神様』は作家が書いたであろうネタにテロップや笑い声のSEをこれでもかと盛り

ここが笑いどころでっせ~

と視聴者に解説し続ける番組でした。お笑いは舞台に立つ人間で完結しているのだから、余計な説明はサムいし要らんというのがテロップ不要論者の主張だと思います。思いますというか、私は不要論者の一人としてそう考えています。

お笑いは常に進歩しファンは先鋭的になっていくものです。朝に笑えたものが夜には古くなっているかもしれない。すでに古くなっている笑いを丁寧に説明されても客は余計に冷めてしまいますここで霜降り明星のM1優勝ネタを振り返りたいのですが、ツッコミ役の粗品は笑いどころの説明をくどくどやらない。
(プールで溺れるボケ役の描写があり…)

ボケ「頭のなかに走馬灯が駆け巡る!」
ツッコミ「死にかけとんがな お前」
ボケ「(手の)マメでか~」
ツッコミ「いや、走馬灯」
ボケ「関節鳴らへんなあ」
ツッコミ「いろんな思い出」
ボケ「この道に出てくるねんなあ」
ツッコミ「しょうもない人生!
(続けて)
ツッコミ「お前の人生ペラペラやないけそんなもん!」

しょうもない人生!」で笑いが十分に起きたあと補足的に次のセリフが続くわけですが、冷静になって考えてみれば「しょうもない人生!」は笑いどころの説明を放棄をして客側に補完を求めています。すなわち野暮なツッコミであれば「走馬灯というものは人間の一生の中でとりわけ印象に残った感動的なシーンが現れるのが普通なのに、仕事での成功体験や恋人との触れ合いなどの一コマではなく、手にできたマメがでかいとか関節が鳴らないとかスケールの小さい瞬間が映るってどんだけ実のない人生送っとんねん」と過剰な説明をすることでしょう。

この省きの美学は粗品がピン時代のフリップネタに特に強く出ていると思います。説明ゼリフが少なければ限られた時間の中で多くの笑いを生むことができますよね。でも省略しすぎて伝わらなければそもそも笑いは起きない。要するに、霜降り明星は「今の客はこの説明で伝わるだろう」という見極めのセンスが抜群なんです。

これを踏まえて申しますれば、エンタのテロップと笑い声SEの評判が悪いのは、客の質の見極めが下手でナメてかかっているから。説明無しでも笑いどころが分かるのに押し付けがましくアピールしてきて鬱陶しい。時代に即しているのは霜降り明星の客を信用するスタイルである。そう言えると思います。

ならばテロップはおしなべて客をバカにするものか?



千鳥の『
相席食堂』がここまでウケているのはなぜでしょうか。テロップ起こしによる力強い言葉のフィーチャーが人気に一役買っているということに異論あるお笑いファンはいないでしょう。

食ってみな 飛ぶぞ

原理原則を守り 一切の妥協を排し 公平かつ厳正に占う これが僕の理念です

「(スタッフ)ET-KING

テロップ自体が悪なのではなく、古いお笑いとその過剰な説明が悪であると看破します。

話をフォントいじりに戻しましょう。私たちが今の価値観で古いテキストサイトの文章を目にしたときに感じる薄ら寒さはエンタを見たときのサムさと相通ずるものだと思います。笑いどころで赤文字ドーン!ボケまっせ、いきまっせ、デカ文字ドカーン!で、今となっては大したことないありふれたボケ。

テキストサイトのフォントいじりをテレビのテロップに置き換えて考えると、フォントいじりそのものが古臭くてつまらないのではなく、現存するフォントいじり系の文章のお笑いロジックが時代に合っていなくて笑えない、と言えませんか。それをフォントいじりは旧時代的なものと短絡的に決めつけてみんな遊ばなくなったのだ。あるいは、単純に「金にならない」ということもあるかもしれない。

さあ、立ち上がれ。もう一度だけ改行とフォントいじりで遊ぼう。あの頃の輝きは目の前にあるはずです。金にならない文体で金を産めたらかっこいいじゃないですか。