『寒い寒い言うてたら余計寒くなるから言うたらあかんで!』

私はそれを真に受け、意識して「寒い」と言わないようにして生きてきた。ふと口をついて漏れ出たのを他人に聞かせただけで、ああ不愉快な思いをさせたと反省するほどだった。もっといえば、声に出すどころか想念として寒いと思うだけで罪の意識を感じていた。

自分の中で「寒いと口に出すこと」と「窃盗」は等しく悪行であり、犯罪行為であった。他人から強いられた規則という意味でも同じものだ。私は毎秒ごとに罪を重ねていた。車のオイル交換をしない罪、食後に横になる罪、だらだらとYouTubeを流し見る罪、そういった数々の罪との戦いが人生のすべてで、生きることそのものは重要ごとには感じられなかった。エコ、SDGs、フェミニズム、LGBT云々。価値観やルールは流行り廃れるが僕の法典だけは厚みを増す一方だった。

「寒いな~」
「寒い言うたらあかんやろしっかりしろ」
「寒くない寒くない」
「…寒いわ」
「何回言ったらわかんねん」
「あーだめだもうだめだ……」
「ロシアはもっと寒いぞ甘えるな」
「そうか、そうだよな…」

ひとり、頭の中で無限に繰り返す。寒さを感じている自分とそれを咎める自分、相反するふたつのどちらが僕なのか分からずに混乱する。
ルールが僕を生きている。どうにかなりそうだった。

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自分が抱いた思念を否定しないことが重要である。「寒い」と思ったら寒いのだ。寒いと声を大にして言っていいのだ。その素朴な感想に対して、頭の中の別の存在から文句がつくかもしれない。『こっちまで寒くなるから黙ってろや』などと。しかし、それは自分自身の声ではない!

語り手が誰なのかをハッキリさせなければならない。寒いと思ったのだけが自分で、ケチをつけているのは自分ではないのだ!そいつは社会生活を送る中で勝手に脳内に生まれ出た「監視者たる自己」とでも呼べるもので、そんな奴の言うことは聞かなくていいし、何より、これは自分自身の声ではないということを知っていなければならない。

どれだけ醜くても、病的でも、反社会的でも、はじめに抱いた想念を否定しないことだ。「あいつ死なねーかな」と思ったならそれが本心なのであり、飾り気のない自分自身の思いを曲げるようなことをしてはならない。ここを間違えると自分の人生を誰が生きているか分からなくなる。法律やモラルが自分の皮をかぶって生きていないか?よく考えるべきだ。自分を否定せず受け入れる、それだけのことだ。ああ、ジャンプのクソ漫画のようで歯が浮く。

自分の抱える苦悩が他人に全く理解されるということはあり得ない。家族、友人、精神科医、どこの誰でも駄目だ。頭の中を開いて見せることができないのだから仕方がない。諦めることだ。理解あるパートナーなんてものは幻想だ。幻想じゃない?なるほど。もしも、あなたに魔が刺して百万人をも超える人々を残忍な方法で殺めたとしましょう。理解あるパートナーはあなたのことを助けてくれますか?それも分かってもらえるといいですね。

『善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや』

末法も末法のこの世にあって、本当の信仰を持つ人間になるのはどれほど難しいことだろうか。自分を頭のてっぺんからつま先まで理解できるのは、どこかにいる理想の誰かなんかでもなければ、ましてや神仏でもない。この鉄則を忘れてはならない。

『自己中心的だ』『不道徳』
『短絡的で極端で頭が悪い』
『そんなことしたら炎上するぞ』
『独りよがりの人生には価値がない』

それが思念にしろ、他人の実際の声にしろ、振り払ってしまえ!
目をつぶって耳を塞げば、自分の五感がなければ、他人なんて存在しないのと同じだ。取るに足らないじゃないか。

世間の目を気にするくだらない監視者が頭の中から出ていかないのであれば、自分のすべてを受け容れてくれる「母たる自己」をより強いものに育てて暗示をかけてもらおう。寒さに震える子供に必要なのは「本当だね、動くと暖かくなるから頑張ろうね!」という声かけなのだ。

「自分が法を侵さないのは損をするからで、他の人間のためではない。バレなきゃなんでもいい」
『その通りよ、分かるわ』
「あいつデブでブスのくせになんで明るく生きられるんやろ」
『不思議よね~、きっと親が甘やかし過ぎたせいだわ』
「睡眠時間たりなくて眠いわあ」
『起きてすぐ頭を使えるだけで偉いじゃない!すごい!』

ほら、気分が良くなるじゃないか。自分にかけてもらいたい言葉が他人の口から出ることを期待してはいけない。自分をいちばん上手に褒められるのは自分だ。それだけのことなんだ。道徳や規則より自分の命の方が大事だ。

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「虚無というものは、思想ではないのである。人間そのものに附属した生理的な精神内容で、思想というものは、もっとバカな、オッチョコチョイなものだ。」坂口安吾

「『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ」釈尊