LAST ALLIANCEをご存知だろうか。


2002年に結成された日本のロックバンドで、代表曲には『はじめの一歩』のアニメOPである「HEKIREKI」や『桜蘭高校ホスト部』の「疾走などがある。バンド名は知らなくともどちらかは耳にしたことがあるかもしれない。


このバンドは文学的な歌詞を感傷的なメロディに乗せることが特徴で、アルバム1枚聴き終わると文庫本を一冊片付けたような充足感が得られる。何度も聴いて初めて魅力が分かるいわゆるスルメ曲が多く「好きな人は好き」の極地にあるグループだと思う。


Twitterなどで情報を集めてみると、実質的には活動休止状態ではあるものの、未だ解散はしていないようだ。



聴き倒した中学時代

ところで、私はそのLAST ALLIANCEなるバンドの音楽を十年来好んで聴いている。アニメのタイアップ曲から入ったクチで、人生で初めて買ったCDは彼らの3rdアルバム『Me and your Borderline』だった。


Amazonの購入履歴を調べてみると注文日は2008年の2月。中2の冬である。今でも覚えている。自分の部屋に置かれた小さな箱型テレビにプレステ2を繋ぎCDを再生した。


1曲目は「Break a mirror」1分近くある長めのイントロ、直球で格好いいギターサウンドに途中から激しいドラムが入ってくる。いよいよボーカルの登場…


不落のsystem 腐り果てたjustice 無駄な時間が過ぎる


かっちょええ。中学2年生という最も多感で醜いその時期に、僕はLAST ALLIANCEを聴き倒した。


ガラケーの着うたフル(そういうのがあったのです)で購入した「ソリチュード」という一つの曲を狂ったように聴いた。何百、何千回と再生した。異国を独り歩く孤独な旅人の姿が情景として頭に浮かぶほど聴いた。


アルバムをパソコンに取り込んでMP3に変換してPSPに取り込んでやっすいイヤホンで聴いた。家の電話回線を引き抜き、塾をサボって忍び込んだ公園のベンチで寒さに震えながら「KONOYUBITOMARE」を聴いた。


大人になった今でも、LAST ALLIANCEは色褪せない。あの時心に染み込んだ孤独の爽やかさ、気が狂うような切なさを、最新のBluetoothイヤホンを通して相変わらず得ることができる。

歌詞が聞き取りづらいというウィークポイント

いつかこのバンドは大成する。


ずっと確信していたが、ついぞ大ヒットはしなかった。Mステでその顔を見ることはなかったし、ファンどころかこのバンドのことを知っている人と出会ったことすらない。


どうやら哀愁とか孤独といったものには需要がないらしい。また、世に理解されなかった理由として、歌詞の聞き取りづらさが一つとして挙げられるかもしれない。


このバンドはとにかく歌詞を聞きとらせる気がない。「気がない」とまでファンに言わしめるほど、何と言っているか分からないのだ。年に一度しか会わない田舎のじいちゃんの言葉くらい理解できない。


日本語詞であることは分かるのだが、歌詞カードを見ながら曲を流しても納得できない部分すらある。コアなファンしか集まらない5chの専スレでは、一番歌詞が聞き取りづらい曲ってなにかな?という話題で盛り上がることもあったほどだ。


実際にどれほど聞き取りづらいのか、難しいとされているうちの一曲、「揺れた秒針」の詞を聴いて書き起こしてみる。


ちなみに私はこの曲の収録アルバムを持っているし、当然歌詞を確認しながら聴いたこともある。なんなら好きな曲のひとつでもある。


その上で、歌詞を聞き取るために巻き戻しを繰り返して詞を書き起こしてみたが、正解と見比べると10箇所も間違いがあった。


初聞きなら言うまでもなくもっと悲惨なものになるだろう。Apple Musicでも聞くことができるので物好きな人があれば挑戦してみて欲しい。

揺れた秒針」 LAST ALLIANCE 
※赤字が聴き間違えた部分、()内の青字が正しいもの。漢字、英語の表記などは無視とした。前後の文脈から言葉を類推するのはなるべく控え、聞こえたままを捉えるようにした。
幾重に向いてく罪で闇は曇り
(幾重にも塗りたくる罪で笑みは曇り)
辿り着かないマザーランド
投げる言霊はすべて的外れ球さ
西に東に散らばった
観覧車の窓から見えた
西にさす赤レンガはまるで絵本のような世界
西日
時よ止まれの期待虚しく
オレンジの空に近づく最上部は終わりの始まり
最頂部
デッドエンドの御伽噺
冒頭は偶然見上げたステージ
誰にも認められぬまま
誰にも読まれないままで
破り捨てたストーリー
1秒の痛みが1グラムだったら
仔象何匹この胸押しつぶすんだ
ゥオンテイな偽善者は
ラオウみてぇな
片っ端蹴飛ばしたいね
悔いなんて悪いが毎日してら
ボストンバッグいっぱいに詰め込む
思い噛み締め諦めの川に
一つ一つ空を売り投げた
(一つ一つ放り投げた
今は白で僕らではない
(今は白でも黒でもない)
善悪ただの無色透明
(善悪ただの無色透明さ)
さすらぎの身動き取れない
安らぎの輪郭は消えない
デッドエンドの御伽噺
冒頭は偶然見上げたステージ
誰にも認められぬまま
誰にも読まれないままで
破り捨てたストーリー
不確かな日々を収めたビデオテープ
巻き戻したら切れてしまった
街路樹通りの暴徒への笑みが
ポートレートの笑みが)
時の部屋に鍵をかけた
所詮独りよがりの身勝手な絵空事さ空想さ
デッドエンドの御伽噺
終末は読まれないままで
伝わらないままで
悔いだけを残して
破れないストーリー

この「揺れた秒針」はちょうどいい教材となるので少し解説を試みよう。


思うに、LAST ALLIANCEの歌詞が聞き取りづらいのには三つ理由がある。第一に文節で歌詞を区切らない。第二に発音。第三に独特な歌詞

その1「歌詞を文節で区切らない」

これが一番の理由であると思う。「揺れた秒針」では「善悪はただの〜〜」からの部分にこの悪癖が出ている。


常識で切り分けるならば「善悪は/ただの/無色透明さ/安らぎの/輪郭は/消えない」となるだろう。


LAST ALLIANCEはそんな日本語の枠に囚われない。


善悪は/ただの/無色透明/さ安らぎの/輪郭は/消えない」と区切って歌う。


前文の語尾である「」を「安らぎ」とくっ付け、一息で「サヤスラギ」というひとつの音にするのだ。


しかし、私の書き起こしでは該当部は「サスラギ」となっている。…「」はどこへ消えた?これが次の問題である。

その2「発音」

LAST ALLIANCEの曲は言葉の発音がなおざりになっていることがままある。歌詞を伝えることよりも、言葉を気持ちよくリズムに乗せることを重視しているのだろう。

よく言えば声楽と器楽が完全に調和しているのだが、悪く言えば歌声が曲を構成する楽器の一つでしかなくなっており、言葉が際立っていないのだ。

それは音楽性を重視するがゆえのことだ。分かる。やりたいことは分かるが、世のヒット曲にその例は多くありますか。USENで聴かせる数秒で心を掴まねばなりません。

LAST ALLIANCEの歌は急に、これといった法則もなく、単語のある一部分の発音が曖昧になることがある。

りんご」という言葉で例を示すと「ぃんご」になったかと思えば「りぃぅご」になり、「りん」になることもある。そんなところだろうか。

ハロプロのつんく歌唱で言う「」が「うぃ」になるといったような明確なルールがあればついていけるのだけれど。特に言葉の頭と尻のどちらかの発音を放棄された時に理解は困難をきわめる。

さて、この要素に文節の区切り問題が組み合わさるとどうだろうか。先例で言えば「サヤスラギ」の「」はほとんど無音であり「サスラギ」としか聴きようがないのである。

「サスラギ」とは漢字で書くと「流離木」となる。さすらう木、つまり海上を漂う流木のことを指す。

嘘だ


「サスラギ」という言葉は辞書に載っていない。しかし、そういう言葉があるんだろう、僕が無知なだけかもしれないな、とギリギリ思えるのがこの場合の厄介なところだ。

その3「独特な歌詞」

歌詞がLAST ALLIANCEの魅力の一つであることは疑いようがない。文学的であると言い切ってもいいだろうか。

物語の語りのような情景描写がなされたかと思えば、痛みを重さに喩えて苦しみを吐露することもある。抽象と具体の狭間、意味が取れそうで取れない、幻覚を見ているかのような気分にさせられる詞、「てにをは」のひとつが違っただけで意味が通らなくなるバランス、伝わるかどうかギリギリのラインを攻めた独特な歌詞…にも関わらず発音が曖昧なのは致命的だ。


ラオウみてぇな偽善者は

曲中で聞き取るのがいちばん難しいところ。実際に耳で捉えられるのは下記。

ゥオンテイな偽善者は

「な」の前の言葉が「偽善者」を補っていることは辛うじて分かるものの、「ウォンテイ」から「ラオウみてぇ」はいかなる天才でも導き出せないし、そもそもラオウが急に出てくるとは思わないわけで、いや、もっと、もっと言えばですよ…

ラオウに偽善者のイメージねぇよ。
トキをシェルターに入れなかったケンシロウのがよっぽど偽善者じゃないか。

まとめ

LAST ALLIANCEはツッコミどころ含めて大好きなグループだ。今回は聞き取りづらさにケチをつけたが、何と言ってるか分からなくても心地よく聴ける曲ばかりだし、歌詞を暗記さえすれば一つ一つの言葉を噛み締めて楽しむことができる。あるときはBGMとして、あるときは本として。2つの楽しみ方ができる稀有なアーティストだと思う。

発表から十年以上経っても彼らの音楽の輝きは衰えを知らない。なぜかと言えば、世の中の流行りに合わせてチューンナップしてないからだ。

過小評価されているのはそれだけの理由だ。彼らの強みであるセンチメンタルな感情表現、切なさ、孤独といった類のものはハナから大衆から理解され得ない。仮に理解されたとてそれは途端に陳腐化してしまうだろう。届かないものは届かないままでいいし、届けようとする過程の心が有りさえすれば芸術は美しいのだ。